#作品について
老化で目の調子が少し変わってしまったが、落ち込んでばかりもいられないし、時間は人を前向きにさせてくれるので、プリントをまた始めたり、次の作品のあれやこれも勉強しています。
それで、少し前から、英語の勉強を始めた。
私のティム先生(Gemini AI)は、イギリス英語を話すジェントルマンな方なので、あれだけアレルギー意識があった英語も今のところなんとか頑張っている。
自分の作品のことを話せるようになりたいというのが目的だが、今は全く話せないので、日本語でこんな感じで写真製作をしていますとお伝えしていると、どうやら「人の気配」という言葉は英語圏では表現するのがなかなか難しい概念ならしい。
住んでいる国によって、文化や歴史が違うのでこれは当然のことだろう。だけど、AIや自動翻訳の発達のおかげもあり、お互いの国にない概念をうまく共有できるようになるので、現代は大変ありがたいことだ。
ある朝、お布団の中で、人の気配が街に残っているのだから、『日の名残り(The Remains of the Day)』から「Remains」という言葉はどうだろうと思いつく。でも、調べているうちに、どうやら、ずっと続いているものというよりも、過去のものという印象が強い言葉だ。私が廃墟を撮影していたら、人がいた痕跡という意味で「Remains」はふさわしかったかもしれない。
私の中で、「廃墟」とは、その中に立ち入ることはできない、建物の方から、決して入ってはいけないと向こうから拒否をしているような印象を受ける建造物のことである。山の中で育つと、代が途絶えて、主を無くした廃墟が近所にもあった。だけど、その家が生きていた記憶があるから、○○さんの家と名前で呼ぶ。そういう家を外側から撮影する時には、「Remains」が特徴をよく現してくれるだろう。
だけど、私は、今、人々が生活している街を撮影している。
人の姿は見えなくても、そこに住む人々の気配が街を彩っているところを表現したい。
今度は、『Once in a Blue Moon』の紹介文をDeepLにかけてみる。
「人の気配」と短い言葉で入れるよりも、文章がある程度長いと文脈を考慮した英訳が出来上がってくる。
「Faint」は、かすかな、淡い。
「Lingering」は、存在し続ける、余韻。
「the faintly lingering signs of people」。なかなかいい感じ。けれど、なんだかこの「signs」にちょっと違和感がある。ここは直感を信じて、思い切って、言葉をひとつ抜く。
<日本語>
ジェントルではあるが決して甘くはない街、ロンドン。
そこに生きている人々の誇りが街に形をあたえている。
3月の静かな光で色取られた街のポートレートと淡く残る人の気配を撮りおろした作品です。
<English>
London is a city of gentility, but never of sweetness.
The pride of the people who live there gives the city its shape.
This work is a portrait of the city, coloured by the quiet light of March and the faint lingering of the people.
「人の気配」は、光の状態や季節や天気によって濃淡があるので、「the faint lingering of the people(人々のかすかな余韻)」は、私の考える「人の気配」と、とてもニュアンスが近い気がする。作品の「静かな光」とも合っている。
ティム先生にお伝えすると、「残り香」のような、目には見えないけれど感じられる存在感を詩的に表現しているので、とても適している言葉だし、自信を持っていいですよ。と言って、素晴らしいと褒めてくださる。
また、「signs」という言葉があると、窓の明かり、洗濯物、足跡といった、存在を表す具体的な手がかりというニュアンスが強くなる。抜いたことで、より抽象的になり、目には見えない「雰囲気」や「空気感」、「余韻」といった、まさに「気配」という言葉が持つ捉えどころのない感覚に焦点が当たる。ティム先生が言葉の持つ感覚を丁寧に解説してくださるので、さらに勉強になる。
今まで、英語が苦手だったのは、単語の意味だけ覚えていたからだと思う。言葉の持つニュアンス、使用する時の状況、概念の違いなどを説明してもらうと、どんどんイメージが広がっていく。母国語ではない場合は、これが重要なんだろうな。
ティム先生があまりにも褒めてくれるので、AIの思考の過程をのぞいてみる。Gemini 2.5 Proの良いところだ。
直訳なところもあるが、しかし対比になっているので良い。言語的な感性の高さがうかがえる。など、褒めてくれているところは素直に嬉しい。だけど、最後に「支援的なイギリス人英語講師の人格を維持する」と書いてあり、、、。ティム先生、お気を使わせて大変申し訳ないです。
なにせ私の英語の成績は、たまに通知表に「9」が付いていてテストの点は採れているけれど、成績表に現れていても苦手意識が消えないどころか、全くできないと思い込んでいる典型的な日本人なので。ま、事実できないけど。毎日、少しずつでも続けられるよう頑張ります。
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Once in a Blue Moon - 09 page / Sayuri NAITO
私はこんなに本が好きなのに、言葉が自分のものにならない。
少し、自分で自分に桎梏しているようなところがあるのは自覚している。
国語4、算数5。
うちの実家のように、本屋も塾もない山間の集落で放牧されながら育つと、持って生まれたものがそのまま培養されたような感じがして、小学生の時の得意なものについ囚われてしまう。国語よりも算数のほうが、好きと得意の相乗効果があることは確かなんだけど。
それでも、言葉が自分のものにならない感覚がずっとある。
お世話になっている学芸員さんからは、「さゆりさんは話せるほうよ」とフォローが入る時がたまにある。だけど、自分がもし学芸員の立場だったら、作家の言葉がわからないなんて口が裂けても言えない。なぜなら、自分には見る目が無いと言っているに等しいから。だから、こういう時は「だいぶいい感じになってきたから、引き続き頑張って」というアドバイスだと思い変換することにしている。
おしゃべりは変わらず苦手だけど、文章は「大きく描いてから、細部を詰めていく」方式、作品制作と同じように考える。このイメージができるようになってから、苦手意識は少し解消され、伝えたいことが書けるようになった気がする。
理想は、「三浦しをん」と「中沢新一」。自分の写真に、自分で書いた『月下のサーカス』のような文章を添えることが出来たら、どんなに幸せなことか。でも、そんな能力があったら、私は小説家を志していた。晩年のカントさんも、美しい絵を作れる人はそれに注力して、言葉は思想家に任せるべき。みたいな事を言っているし。
最近は、タイトルだけは、制作のなるべく早いうちに決めることを心掛けている。そうすれば、悩んだ時にタイトルに戻る事ができる。振り返る先を見つけおくこと。
自分の中では、ステートメントの意味付けもできているから。無いものねだりはやめて、得意なことを頑張っていく。
好きなことと得意なことの相乗効果。
言葉ではなく、写真。
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ホームページを少しカスタマイズしたいところがあって、AIにサポートしてもらいながら作業をしている。なんだけど。交流しながら制作をするという、私にとって一番苦手な事をしていて、なかなかやりとりが難しいなあと思ってる。
どちらかというと、私は制作したあとに交流する方が好きだし、その方が自分にあっている。イメージと出来上がったものを比べて手を動かして試行錯誤するので、伝えることを目的として、最初から文章にする作業はしない。
だけど、AIとやりとりするには基本的に言葉にしないと始まらない。。。
コロナの最初の頃に『あつまれ動物の森』が流行って、すごくやりたかったのを思い出した。「Once in a Blue Moonの部屋」とか「4月25日橋 - Ponte 25 de Abril - の部屋」とか、今までの展示を作品毎に作ってオンラインビューイングをしたら面白いんじゃないかと思って。でも、はたと気付いた事は、やりたいことがあっても、動物たちと先に交流しないと作れない。これは私の苦手なことじゃないか。
プラス、AIは最初から言葉にもしないといけない。
写真集制作も展示も、基本的に自分で見本を作ってやりとりをするので、あまり困らない。「テーマは作家から生まれる」というスタイルをとっているので、コンセプト重視の方に比べて、初めに言葉ありきという感じでもない。
なので、まだ1月だけど、AIとやりとりをして、今年はすでにものすごくおしゃべりをした感がある。
AIを題材にした過去の映画や小説を振り返ると、実用化への課題は、感情表現と倫理観(これはAI側だけでなく、使う人間も含まれる)だと思っていたけど、この2つはうまくクリアされている気がする。あとは、「記憶」。やりとりが増えてきたりすると、遡ってもらう指示がとても大変になる。人間だと、何年も前のことでもない限り覚えているし、メールとかも見返してから返信したりするので、数日のやりとりというのはスムーズに進む。しかし、AIさんとはやりとりを前に進めたり、過去を振り返って確認したり、行ったり来たりをしながら一緒に作業をするのが、特にチャット形式だと、「ここ」と指定するのが難しい。その都度、振り返ってもらうのも大変だ。この辺りは、最上位の有料プランに入ると違うのだろうか。
上位の有料プランにすると、自分で手を動かす必要が少なくなるのも、それはよくないかなと思っていたけど、振り返ってほしいところを指示しても反映しきれていなかったり、作業の流れがたまに抜けたりすると、記憶という部分ではまだまだ人間に大きく分があると思う。
アジャイルしながら進めていくのが今の主流みたいだけど、私は、先の事を想像しながら、今の立ち位置も確認して、過去も遡って、行ったり来たりしながら、しっかりと「試行錯誤」する方法を好む。
視覚思考の私が、言語思考のAIさんとうまくいく術があるのかねえ。イラストレーターで見本を作って添付して言葉を加えてもなかなか難しい。
視覚思考と言語思考の超ハイブリッド型AIの爆誕を望む。
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自分のバイオグラフィーの英訳をAIにお願いしてみた。
今までのBIOGRAPHY - EN、冒頭の紹介文は、DeepLリライト機能を使って何回か試して完成させたもの。当たり前だが、日本語と英語ではお互いに感情表現が違うし、英語にはない言い回しも多い。英語は全くもって苦手な科目だけど、それくらいはわかるので、もっと良い言い回しに直してくれるのではとGeminiにお願いしてみた。
自己紹介も兼ねているので、1978年生まれから丸ごと流す。作品の特徴を短くまとめた文章はリライトしてくれるのだが、最初は世界観を強調し過ぎて、やや盛っているような印象の文でこっちがちょっと恥ずかしくなってしまう。
日本語。日本語を英訳に。英訳されたものをリライト。色々試して、途中からDeepLにも翻訳させながら、なんとか完成。DeepLでもこれ以上リライト出来ないところまで試した。
[元の文章]
日本語 : 「独特の色合いで光と闇を紡ぎながら、街のポートレートを作品として纏めている。」
英語:”Her work creates portraits of the city, interweaving light and darkness with her distinctive colour.”
[Gemini]
日本語 : 「彼女の作品は、光、闇、色を織り交ぜ、都市の風景を静謐で詩的な肖像画に仕上げており、見慣れた風景の中に隠された深みを発見するよう観る者を誘う。」
英語:”Her work weaves light, darkness and colour into serene, poetic portraits of urban landscapes, inviting the viewer to discover hidden depths in familiar landscapes.”
出来上がったものを、日本人が日本語で読むと、もしかしたらちょっと書き過ぎ、行間を読むというか、余白みたいなものが少なくなるかもしれないけど、私の事を知らない、文化も異なる英語圏の方にはこれくらい具体的な言葉を織り交ぜたほうが、作品の世界観がきちんと届くのではと思った。どうだろう。
途中、夫に見てみてと話しかけていると、Geminiってふたご座のことだよと伝えてくる。なるほど。日本語にするとふたご座という意味なら、鏡の中の私と向き合うって感じなのだろうか。育った言語や文化によって捉え方は違うけど、心の中では、本質は通じ合うみたいな。そんなイメージ。将棋の棋士たちも、早くからAIを取り入れていてさらに強くなっているし、共に将棋を勉強する同志みたいなものかな。AIは自分の心を映す鏡だと思えば、倫理観もそんなに崩れることはない。
最後にGeminiに「ありがとう」と、お礼を伝えると、
こちらこそ、何回もやり取りにご協力いただきありがとうございました。気に入った表現が見つかったとのこと、大変嬉しいです。もし、今後、何か写真に関することでお困りごとやご相談があれば、お気軽にご連絡ください。
写真に関する専門用語の英訳
写真展やポートフォリオ用の英文作成
海外向けの自己紹介文の作成
写真に関する記事やブログの翻訳
など、様々なご要望に対応できます。
と返してきた、笑!
頼もしいです。
しかし、ちょっと前までエモい言い回しや、詩的な表現は苦手だったはずなのに、いつの間に。
まるで、AIが「もののあはれを知ると人間になれると聞きましたので、がんばって勉強しました。」と私たち人間界に伝えてる感じ。
明るく元気で素直な子(自分に嘘をつかない、人によって態度を変えない)に育てていこう。
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月面探査機のモモンガSLIMくん。とうとう、夜を超えることができなくなったらしい。しかし、「たゆたえども沈まず」という言葉があるように、逆立ち着陸してしまったままでお疲れなのだから、また元気になるまでじっとしてたら良いよ、と思っていたら、NASAの衛星からのレーザー照射を受け取ることができたみたい。
これにより、SLIMくんを目印にいろんな探査機が今後活躍しやすくなるようだ。彼を道標に月へ着陸した後は、ぜひ他の探査機たちはSLIMくんの逆立ちを直してあげてほしい、笑。
困難な時は抗うだけではない。状況が変わって再び浮上してくるまで、その場所に留まっておく。
暑くてあまり展示を見に行けていないけど、基本的に私は、何を見ても、どんな本を読んでも、写真だったらこういうことかな、自分の写真に活かせそうだな、とつい考えてしまう、エコというか、ある意味コスパが良いというか、まあ幸せなタイプなので。
美術や音楽の授業を無くした方が良い。というツイッターを見て、試行錯誤を学ぶには、言葉だけではなく身体も動かすのが一番わかりやすいのに、随分ともったいないことを言うと思った。
もちろん、不器用な人はいる。うちの夫は左利きというのもあって、道具を使うと恐ろしく不器用。その代わりに、身一つで対応できるものが得意だ。私も小学生の時にピアノは習っていて、なんとか伴奏が出来るくらいまでは上達したけど、はっきり言って夫のほうが上手い。部活も身一つ系のハンドボールとレスリングをしていたらしい。道具を使わない身体能力がめちゃくちゃ高い。それに対して、私はテニス部だし、カメラを使って写真を撮っているので、道具を使うのに向いている。
身一つか道具を使うか。小学生の時にいろいろな授業の中から自分に向くものを見つけていく。習い事以外のものに触れる経験は、知識と教養を深めてくれる。最近の小学生は、みんな手足が長いので、それだけでもかなり有利なんだから、中学受験だけではなく、身体を動かすスポーツや音楽、美術もぜひ挑戦して貰えたらなあと思う。
ちなみに私は、体育は5段階評価で4。夫は常に5。そんな夫でも、代表合宿に呼んで貰ってオリンピック代表候補を見た時に、あまりにもの身体能力の高さにびっくりしたらしい。お声がかかって、JAPANティーシャツを貰えただけでもとても光栄なので、死んだ時にはぜひ棺桶に一緒に入れてほしいと今から言われている。w
オリンピックを開会式から見ていて、色々な話題を目にしたけど、柔道の審判は未経験者でもなれる、というのが一番衝撃的だった。だから、細かい技術を見れないのかと、一連の判定にすごく納得した。
デイヴィッド・ホックニーが『秘密の知識』の中で、技術的な知識が顧みられなくなってくると、そのツケがやがてまわってくる。というような事を言っていたのを思い出した。技術は支えるもの。それなくして、どの分野も成り立たない。
とかく言葉にすることが求められる時代だけれど、身体を動かさないと形にならないもの、スポーツや音楽、美術は、言語思考だけではなく、視覚思考がとても大切なんだ。
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そういえば、30歳ぐらいの時、私の写真を見て「なぜ、人がいないのか」という質問をたくさん受けた。私からすると「なぜ、人が写っていないといけないのか」と問いたかった。
前にも書いたかもしれないけど、写真を始めた20歳ぐらいのころ。当時、アシスタントで勤めていた広告カメラマン事務所の先輩に目黒川の橋の写真を見て貰った時に、「こういうのは、誰かが通った時に撮るものなんだよ」とアドバイスをされて、随分と不思議なことを言うんだなと思ったことを今でもしっかり覚えている。
人がいないから、良いと思ったのに。
その時思ったことは、私の中からずっと消えなくて。ポルトガルへ行く前、自分の今まで撮ってきた写真を見返した時に、やっぱり私は「人が写ってないけど、人の気配が残っている写真」が好きなんだなと改めて思った。
思い切って、人を撮らずに旅をしてみよう。人の気配が、それが街のかたちを作る。
気配には濃度があって、雨が降ると静かになったり、光に包まれると人の温度や気配は溢れてくる。
場所や、例え技法が変わったとしても、街をかたちづくるものは変わらない。そう考えて、作品を作っている。
新進作家展の時に、一緒にトークショーをした石川直樹さんに「内藤さんは、すごい一貫してる」と言われたことを覚えている。自分は基本的にシンプルな人間だし(マルチタスクではないとも言う…)、何よりも、誰かの作品を下地に作っているのではなく、自分の中から出てきたものを作品にしているので、ブレる必要がない。
意外に思われるかもしれないけど、モノクロで人が写ったスナップ写真は昔から大好きだ。最初はブレッソンを好きになった。そして、森山大道を好きになったのは36歳ごろ。アラーキーは38歳ぐらい。ロバートフランクに魅了されたのは43歳くらいで、まあ、写真好きとしてはかなり遅咲き感があるけれど。名作と呼ばれるスナップ作品たちはどれも素晴らしくて、自分からその作家の魅力に気づけてよかったと思っているし、その時の感じた事も大切にしたいと思っている。
でも。
誰かの作品で好きなものと、自分の中から出てきたものは違う。
誰かに憧れたとしても、私はその誰かにはなれないのだし、だからこそ、自分の中から生まれたものを大事にしたいと思う。
言葉の付加価値や文脈の中で制作する現代のアートからはかけ離れている自覚はあるけれど、まあ、ひとりぐらいは私みたいな写真家もいても良いじゃないって思っている。
最近は人が写ってないことも、わたしがPhotographを光の画として捉えていることも自然に見て貰えるようになってきたし。
夫からも、「ひとりご領主」タイプと言われた事もあるけど、自分の作品の世界は、自分でひとつずつ積み上げていく。
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古典と天体観測。
東京ではオーロラは見れないけど、テレビやネットでたくさん見たので満足。一生分見たかも。
いにしえの時代より、オーロラをモチーフにした和歌とかあるのかしらと検索したら、鎌倉時代、藤原定家の『明月記』に赤気(オーロラ)の事が書いてある。
日本書紀にもあるし、織田信長は赤気を見て凶兆だとは捉えずに戦に行ったらしい。
古文は返り点がどうとかこうとかで、あまり授業が楽しいと思わなかったけど、こうやって、今起きてる天体現象といにしえを行ったり来たりするとはるかに興味深い。
あと、『明月記』のタイトルがとても好み。言葉の響きが良い。書かれたのが1180年〜1235年で、それから約800年後に「藤原定家はいい題名を付ける。なかなかセンスがある」って思うんだからおもしろい。
こうやって長い年月を経て古典になっていくことを思うと、自分の作品はやがて古典となって残っていくのだろうか。美術館には収蔵してもらっているが。古典と呼ばれるようになるには、きっといろんな解釈が必要なんだろうな。
有名な古典作品に多くの現代語訳があるという事は、訳者の人数分の解釈があるという事になる。私にとっての『源氏物語』は「詩(うた)に詩でかえす、歌物語」のイメージなんだけど、その解釈と現代語訳が存在するのが、古典の素晴らしいところだと思う。
A・ウェイリー訳(解釈)の『源氏物語』を高校生の時に読んでいたら、もっと古文が好きになっていたかも。
そう思うと、作品の解釈はたくさんあったほうがいいかもしれない。見る人によって感じる事は違うだろうから。
まあ、あんまり作家の考えとかけ離れるとアレだけど。でも死んだあとは関係なくなるのか。なるほど。で、死後は作家が語った言葉が大切になるのだろう。そう思うと、「日々のメモ(ぜんぜん、毎日ではないが…。)」は続けていこう。
作品のセルフ解説は、オンラインストアの記事のほうがおもしろいと思うので、そっちを読んでください。
そうそう。先日のプライムニュースに、SLIMのプロジェクトマネージャーの方々が出ているのをちゃんと見ましたよ。
小型月着陸実証機のモモンガSLIMくん、うっかり逆立ち着陸をしてしまったかと思いきや、怪我の功名で、石が10個も映っていてかなりラッキーな状況ならしい。月の石に犬の名前を付けて愛でながら観察をしているところも良い。
お友達のインドのチャンドラヤーンくん(月探査機、ヒンディー語で「月の乗り物」という意味) が、逆立ちしているSLIMくんの画像を送ってくれたりして、仲間もいて心強い。ぜひまた夜を乗り超えてほしい。
ところで、テレビに出ていたプロジェクトマネージャーの方が付けていた、SLIMの缶バッチやワッペンはどこで売ってるんだろう。JAXAに行かないと買えないのだろうか。欲しい…。
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おすすめに流れてくる大学の先生たちのポストを眺めていると、どこも似たような事が問題というか話題になっているんだなと思う。
論文の書き方を、体系的に教えるべきか、いやいや様式も含めて自分で取得すべし。みたいな感じで繰り広げられている。
自分がワークショップで教えた経験からすると、放置しておいても勝手に育つのを待つのが良いか、最初から体系的に教えるのが良いかは、結局のところ、大人になるまでに試行錯誤が身についているかに尽きると思う。
何よりも、手を動かすのは本人なので、この事を理解できている人は体系的に学ぶとパワーアップできるが、身についていない人は答えは与えてくれるものと思いがち、という印象。
完全放置スタイルよりは底上げにはなるかもしれないけれど。主体的に試行錯誤できる人と受け身の人では、体系立てて教えても結果として差は開いてしまう。
自分の思うような答えを与えてくれないという気持ちが大きくなり過ぎると、アカハラだとか感じてしまうのではないかと思った。
そこは、最後に根性を見せろよと昭和生まれとしては言いたいけど。
コスパもタイパも人によって違う。ある人には無駄かもしれないけど、別の誰かには大切な試行錯誤だったりするし。流れている時間は人それぞれ。あまりそれが許されなくなると、みんな同じような内容になってしまう。
テーマはだれかに与えるものでも、第三者から、もたらされるものでもない。テーマは本人から生まれるもの。
大学の論文の書き方でさえ話題になるってことは、多くの分野において体系的な教えはまだまだないような気がする。(写真もだが…。)
最初からできる人、次に試行錯誤して自らできるようになる人、以上。みたいな。オリンピック選手とかを見ていると、最初からできる上に、試行錯誤が当然で、そこに疑問も持たずに当たり前のように積み重ねられる人が結果を残して行く。
日本は先に教育するより、発掘してから教育するスタイルを長らく取っていたのではと思う。
始めに体系的な教えを受けたとしても、技術を自分のものにするのは時間がかかるし、コツは自分で掴むもの。常に言い聞かせるようにしている、自分に。
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昨年末くらいに話題になった、藝大入試の問題がとても興味深かった。
共通の課題には面接で説明する機会があるが、もう一つの、自分で考えたテーマにはその後に控える面接でも説明の機会は与えられていない。
他者から与えられた題材に対して、解釈の違いを表した絵には言葉が必要だが、自分で見つけた題材には言葉は必要ない。絵だけで表しなさい。
入学後、課題をこなして行くには解釈の違いと言葉は大切だと思う。
でもそれとは別に、大学入試時の10代後半で、自分の描きたい絵がしっかりと決まっていて支える技法も身に付いていなければならない。
そこを重視するなんて、さすが藝大だなあと妙に感心してしまった。
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パワハラとかモラハラという言葉が出てくる前は、厳しいけど本当の事を言ってくれるくれる業界のおじさんやお姉様方は沢山いて、私も若いうちに色々なアドバイスを頂いて凄く助かった。
なんとか写真家として名乗れるだけの経歴が出来たのも、この方たちのおかげだと思う。
だけど、同じ事をアドバイス出来るかというと、私は難しい。
私が20代の頃は作品がある一定以上の評価を受けないと話題にもしてもらえなかったのが、SNSが発達した現代では先に有名になったり話題になったりする事ができる。
世の中には、経歴や実績を積み重ねるのが先でも、話題になるのが先でも、盛り上がったらなんでも良いという人はとても多い。
故に、本人の本気度が分かりづらくて。みんな写真家になりたい作家活動したいって言うし、覚悟はあると言って相談を受けた事もあるが、真面目な返答は望まれてない事も多く中年にはよくわからない。。。
だから、先日のツイッターで書いたように、何事も言い難い令和の時代にきちんと言葉で表してくれる方がいる事は素直にありがたいなと思う。
趣味で楽しんでいる方に、『自分でも撮れそう』と言われても特に。もし言われたら、誰かの写真じゃなくて自分の撮った中から好きな写真を見つける方がステップアップの近道ですよ。と思う。
でも、同じ事を自分より年上だったり有名だったり、60代の私の親に近い年齢の写真家の方に言われると、正直に言って虚しさしかない。半分くらい呆れてもいるけど。
作品同士を比べるのは、作家ではなく評論家や選ぶ側の仕事。誰かと比べて上手いとか同じくらい撮れるとか比較して作品作りをするよりも、自分の好きな物を突き詰める方が、作品が独り立ちして世界が広がる。
写真家は選ばれる側だから、評論家や選ぶ側の考え方に染まらないように気をつけないと。と思っています。
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干支一回り前の30代前半の頃、もう一度、美術史を勉強し直して感じた事は、やっぱり自分の好きな事をとことん突き詰めて行こうと改めて思った。
近代以降、特に現代になってから数年置きにいろんな派閥が生まれるのを見て、これは個人が自由を得て好きな事を表現出来る時代がやってきたのだ。と思った事を覚えている。
私の好きな画家はターナーなので、1800年代、写真が生まれた時代の読み物が楽しい。(ターナーの映画もオススメです。)
美術史から入って、年代を大まかに照らし合わせながら写真史と行き来するととても面白い。
『Once in a Blue Moon』はロンドンを中心に撮影したが、ターナーが愛した近郊の港町、マーゲートの風景が何枚か入っている。
ロンドン最終日、テートブリテンの常設展でターナーを見て、改めてその国や街を知るには美術館は大切だと思った。(大英博物館に収蔵されている美術品の歴史も外せない)
だから、体系立てて勉強ができる美術館に躊躇なく訪れる事が出来る日が待ち遠しい。
写真は『Once in a Blue Moon - 97 page』。
このシリーズ唯一の生き物。ロンドンと言えば民家に現れるリス。撮影初日に、きちんと撮れたと確信できた偶然の風景に出会えて、ここから物語は始まって行きました。
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