私の読書好きは、幼少の頃から自然と本に手を出していたというよりも、子供の頃にありがちな、何か新しいものがどうしても欲しいという単純な欲求から来ている。
小学校2年生くらいの時。両親がかしこまって「ちょっとそこに正座しなさい。今日から、お父さんお母さんと呼びなさい」という謎の儀式を取り行った後から、おもちゃの類を一切買ってくれなくなった。シルバニアファミリーが欲しかったのに。散々ゴネた後、もしかしたら本だったら買ってくれるんじゃない?と思ったことから始まったことをよく覚えている。 そのうち、「うちの子はよく本を読むわ〜。誰に似たんじゃろー」とか親戚の前で言ってるし。しめしめ。うまくいったな。と思っていた。 でも大人になってよくよく思い出したら、街の百貨店(天満屋)に行っても、おもちゃ売り場ではなく本屋の前あたりに連れて行かれて、「この本が欲しい」と初めの一冊を自ら選ぶように仕向けられていたし、ああいう風に言っておけば、サユリの事だから益々調子に乗って本を読むに違いないという算段があったに違いない。親は全てお見通しである。 まずは一冊、自分で選んだ本を最後まで読む。内容が高尚だとかそういうのはどうでも良くて、親から見て明らかに偏った本でなければ、本人の好きにさせてくれる。一冊ずつ、読書を積み重ねる毎に夢中になる。やがてシリーズものが欲しくなる。 好きだったのは、倉橋燿子『さようなら、こんにちは』全20巻。 同世代の、全国の小学生の女の子達の中で流行っているものから自分で好きな本を選ばせてくれた事は、何もないトトロみたいな山間の村で生まれ育った私にとって、とても幸せだったと思う。『ピチレモン』も『明星』も買ってくれたし。もちろん、流行っていた文通もした。 街まで買い物に出かけるたびに欲しいと言って買ってもらう。次に買うまで、繰り返し読む。それを20巻分きちんと続けたから、親はそれで良しとしていたようだ。 学校で借りれる文学作品でもなく、親の好みでもなく、自分だけのものにしたい。その欲求をきちんと満たせてくれた。本を、物語を大好きにさせてくれた事を今でもとても感謝している。 本はさまざまな国にも時代にも連れて行ってくれる。昔だけでなく、生きている世界線が違う場所とも通じている。誰かの気持ちに感情移入したり。忙しい。私とどこか、私と誰かを繋いでくれる。安ぎと幸せ。物語から文化や歴史、人間の心の機微を読み取って、いろんなものと行ったり来たりする術を学んだように思う。 『プロファイリング』という言葉が流行った10代後半の頃。マーダーケースブックみたいな本をよく読んでた時に、一度だけ「お前は何になりたいの?」と軽く咎められた事を覚えている。黒歴史である。 それ以外は何も言われない。読めとも読むなとも言われていない。いつも好きにさせてくれる。写真を始めてからも、こういう写真集を見ないと駄目だと周りから言われた事もない。自分で選びなさいと、好きにさせてくれる環境にいつもありがたいと思っている。 (もしかしたらアドバイスはされたかもしれないが、覚えていないだけかも。私の事だから人の話は聞いていない可能性の方が高い…) あとはパズルも大好きだった! コメントの受け付けは終了しました。
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8月 2024
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