そういえば、30歳ぐらいの時、私の写真を見て「なぜ、人がいないのか」という質問をたくさん受けた。私からすると「なぜ、人が写っていないといけないのか」と問いたかった。
前にも書いたかもしれないけど、写真を始めた20歳ぐらいのころ。当時、アシスタントで勤めていた広告カメラマン事務所の先輩に目黒川の橋の写真を見て貰った時に、「こういうのは、誰かが通った時に撮るものなんだよ」とアドバイスをされて、随分と不思議なことを言うんだなと思ったことを今でもしっかり覚えている。 人がいないから、良いと思ったのに。 その時思ったことは、私の中からずっと消えなくて。ポルトガルへ行く前、自分の今まで撮ってきた写真を見返した時に、やっぱり私は「人が写ってないけど、人の気配が残っている写真」が好きなんだなと改めて思った。 思い切って、人を撮らずに旅をしてみよう。人の気配が、それが街のかたちを作る。 気配には濃度があって、雨が降ると静かになったり、光に包まれると人の温度や気配は溢れてくる。 場所や、例え技法が変わったとしても、街をかたちづくるものは変わらない。そう考えて、作品を作っている。 新進作家展の時に、一緒にトークショーをした石川直樹さんに「内藤さんは、すごい一貫してる」と言われたことを覚えている。自分は基本的にシンプルな人間だし(マルチタスクではないとも言う…)、何よりも、誰かの作品を下地に作っているのではなく、自分の中から出てきたものを作品にしているので、ブレる必要がない。 意外に思われるかもしれないけど、モノクロで人が写ったスナップ写真は昔から大好きだ。最初はブレッソンを好きになった。そして、森山大道を好きになったのは36歳ごろ。アラーキーは38歳ぐらい。ロバートフランクに魅了されたのは43歳くらいで、まあ、写真好きとしてはかなり遅咲き感があるけれど。名作と呼ばれるスナップ作品たちはどれも素晴らしくて、自分からその作家の魅力に気づけてよかったと思っているし、その時の感じた事も大切にしたいと思っている。 でも。 誰かの作品で好きなものと、自分の中から出てきたものは違う。 誰かに憧れたとしても、私はその誰かにはなれないのだし、だからこそ、自分の中から生まれたものを大事にしたいと思う。 言葉の付加価値や文脈の中で制作する現代のアートからはかけ離れている自覚はあるけれど、まあ、ひとりぐらいは私みたいな写真家もいても良いじゃないって思っている。 最近は人が写ってないことも、わたしがPhotographを光の画として捉えていることも自然に見て貰えるようになってきたし。 夫からも、「ひとりご領主」タイプと言われた事もあるけど、自分の作品の世界は、自分でひとつずつ積み上げていく。 コメントの受け付けは終了しました。
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8月 2024
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