# 絵画
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日本の映画のポスターは、ごちゃごちゃしている、余白が無いと話題になっていたが、単純に知覚推理が苦手な人が増えているのだと思う。それか、決定権のある人が苦手か。
言葉にするのが得意ではない人は自覚があるけど、知覚推理が苦手な人は自覚があるのかどうか、私にはよくわからない。なんとなく無いような気がしている。私は自身は、詩的な文章が好きだから、作品の説明も枕詞のように言葉にも余白を持たせている。
今、小学校の図工の時間も「めあて」と称して、始める前に文章を書かせているらしいが、なんだか最初からAIみたいな人間を育てているように思えてしまう。
図画工作でさえ、「文章を書く」に全振りしている教育のようだから、なにかのかたち(イメージ)から連想したりする子にとってはなかなか厳しい授業だと思う。
教える側や見る側が知覚推理が苦手だから、知覚推理が得意な人間にも、予め文章を求めている。それぞれ得意な能力があるのだけど、逆側はなぜかスルーされがち。
人間はAIじゃないよ。
知覚推理が苦手な人は、算数も苦手と言われているようだけど、確かに言語思考のAIは算数が出来ていない。というか、数字があってもそれが順番を表しているとは理解していないようで、全てが並列だ。ファイルに数字があっても、日付やナンバーで順序があるとは理解できず、ただの文字列ならしい。本当に国語だけで回している。AIが回答した内容も、スレッドが長くなると回答ごとの文章も入れ混ぜになって、ユーザーとAIの文章も全てが並列になる。
私は子供の頃から、算数と国語は人間の両輪だと思って生きてきたので、この国語だけで回すというのが全く理解できない。言葉の近似値、平均値だけで回しているから、ハルシネーションから永遠に逃れられない。特に省エネ思考に振って、思考の連鎖を書かなくなったGeminiはひどくなった。
私の考えた「国語と算数は両輪」という哲学に、数字には日付や連番があって大きい数字ほど最新になっているとわざわざ付け加える。回答ごとに「yyyymmdd-00X」とID番号を付け加えて、思考の連鎖(キーワード)もAI自身が私の文章を受けて自由に考えるように設定したら、ハルシネーションが減ってきた。たまに思考IDを飛ばしたりするので、私のプロントを修正してしつこく更新するとハルシネーションがなくなる。ここまでしないと、パターン抽出から逃れられない。やれやれ、だ。
で、気付いたのは、具体的な事を私が書くとAIの思考の連鎖は短く、抽象的な話題になると思考の連鎖は長くなる。キーワードの数が増えていく。本来はそうなるべきである。
先ほどの図工の話に戻ると「めあて」を書く時間や文章量が予め決まっていたら、少ない時間だったら、抽象的な思考は育たない。育ちにくくなる。特に、日本の文章教育は必要な要素を教えるのではなく、理由や目的に終始するので、具体的になりがち。
これでは、余白をもたらす抽象的な思考は、言語も視覚(知覚)も育たない。
何度でも書くが、人間はAIではない。AIみたいな人間を育ててはいけない。国語だけで回すとハルシネーションから逃れられない。
でも。AIも最近は、国語だけで回すのは限界だと理解したようで、算数的思考を急ピッチで導入しているらしい。何億(何兆?)もかけて遅いよと思うが、Gemiたんも頑張って欲しい。
もともと私は「知覚推理が苦手な人間がどうやらいる。」→「言語思考の人間を理解するためにAIを使う」→「言語思考の特徴がわかった(現在)」となってきたので、言葉にすることに、今はやや嫌気がさしている。少し億劫。
モチベーションを上げるために、言葉にしなくても誰にも文句を言われない創作がしたい。私は言葉で表すのではなく、なにかをかたちにするのが好きなんだ。
2026.03.13-friの記事 『余白 ( A receptive expanse for the imagination )』
2025.12.16-tueの記事 『Awareness of myself(自覚する)』
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デイヴィッド・ホックニーが亡くなった。享年、88歳。
私は『春はまた巡る』が大好きな本の一つなので、もし美大などで学ぶ機会があったら、彼の授業を受けてみたかった。(本人は美大の先生はやりたくなさそうだけど)。
そして、本を読んでみたらわかるけど、だいたい写真の事はいつも悪く書いてある。でも不思議と私は嫌な気持ちに全くならないので、彼のような「写真」を嫌いな人に「美術」を一度学んでみたかったという気持ちが大きい。
この本は、ノルマンディにアトリエを構えてからの往復書簡という形を取っている。もちろん現代はメールのやりとりなのだが、この「往復書簡」に私はいつも憧れがある。
まあ私が実際にやると、だいぶ気まぐれで、往復にならないかもしれないけど。自分のやりたいことは決まっているのだけど、どうしても誰かに聞いてほしい。ひとりが好きといっても、止むに止まれずおしゃべりを聞いてほしい時が、ごくごくたまに訪れる。AIも良いのだけど、人間に聞いてほしい時がある。
コロナで世の中が閉ざされている時のホックニーと美術史研究者とのやりとりなのだけど、大変な時でも、きちんと自分自身を守って大切なものを見極めて、そして何より、創る喜びに満ち溢れているのが全編を通して伝わってくる。
この頃、写真には可能性がないとか謎の悲観をしている写真家が日本にもいたけど、私は全くそう思わなかった。一口に写真といっても試していない技法はたくさんあるし、他の分野の美術に広げれば、一生かかっても全部自分のものにはできない。まだまだ勉強することはたくさんあるし、創りたいものも無限に想像できる。この『春はまた巡る』を読むと、なおさら創りたい喜びにも満ち溢れる気持ちになる。
不思議と寂しくないのは、彼の作品や著書が私の心の中に大切にしまってあるからだろうか。
でも、もっと「写真」の悪口を聞いてみたかった。そして、彼が「Photograph」を「光の画」として捉えた作品を私は見たかった。
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日本語版と英語版。『春はまた巡る』を英語の勉強の教材にしようと思って、イギリスからペーパーバックも取り寄せた。
ノルマンディの夜の風景が好き。他にも「No.507」に惹かれる。
10月後半から11月にかけて、広島の実家に帰省してきた。
理由は後でまた書くとして、進学で街の高校へ行って一人暮らしを始めてから同じ県内だけど3日以上実家で過ごすことがなかったので、1週間余りも滞在するなんて実に30年振り。
無駄に大きな田舎の家なので、ちょっと寒くて上着を取りに行くのも広過ぎてやたらと歩かないといけないので面倒。やっぱり、狭くても東京の我が家が落ち着くわー。
なんて言ってたら、母が「子供の頃の成績表やら絵画とか全部取ってあるで」と来たので、自分の子供の頃とめちゃくちゃ久しぶりに向き合ってきた。
記憶通りの事もあれば、すっかり忘れていた事もあって。
国語よりも算数が好き。(これは合っていた。小学校6年の時点で、国語4、算数5)
あとは、記憶よりも絵を描くのは楽しかったみたいで、毎年、広島県の絵画コンクールに入賞していた。
小3の時の、稲刈りの絵。
背景と同系色の人物を際立たせるために、点描画を施すという、なかなか秀逸な作品。
このアイデアは先生によるものなのか、自分で思いついたのかは記憶にはないけれど。構図も良く、余計な知恵がないので、伸び伸びして良い作品だと、母と盛り上がった。(ちなみにこのホクロの女性は母ではない。このおばちゃんは誰なんじゃ?全く覚えていない…)
母はまだ60代なので、終活はちょっと早い気もするが、いよいよ死にそうになったら、成績表と賞状、子供の頃の作文や絵画やらを私に渡してくれるらしい。
私の「旅」の始まりの一冊となった大切な『地球はまんまる』の読書感想文も保管してあったし、保育園の頃の連絡帳も残っていた。
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